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シンボルカラー(紫色)の由来

  昭和13年、前社長 田中喜一郎は 中国の北京にあった福昌公司という建設会社に就職し、 北京郊外の南苑飛行場の新設現場で排水路を設置する工事に 携わっていました。

  この工事は、数社で請け負っていたのですが、 現場に出入する各社の苦力(労働者)の人数が、 入場時の記録と退場時の人数が数名入れ違うことがあり、 それを空港の守備隊長に指摘されて、 どの会社の現場責任者も頭を悩ませていました。

  そこで、各社ごとに色を決め、 苦力(労働者)の胸に各色の布を付けておけば、 どの会社の者か判断でき、 現場責任者と労働者が一緒にいることも確認出来ると 空港の守備隊長に提案したところ、 隊長も賛成しすぐに実行することになりました。

  早速、各社の現場責任者が集まり、 それぞれの色を決めたのですが、 そのとき反射的に『紫』と答えました。

  その後、当社のシンボルカラーを決める際、 この事にちなみ社色を紫色にしました。

  紫色は、我国においては平安の昔から高貴な色として尊ばれ、 ローマ帝国時代には皇帝しか身につけることを許されぬ色とされていました。 英国においてもロイヤルパープルとして現在も使われています。 その紫色の旗の下に私達は集い、知恵と汗を出し、 互いに協力し幸福になる努力をする事を誓います。

シンボルマーク について



  楕円は無限の広がりを意味し、 田中組のイニシャルTの字で大地にしっかりと根ざし、 大宇宙を支える企業のイメージを表わしたものです。
  また、手を大きく広げ天を支える人の姿を重ね、 社員一人一人が持つべき姿勢と考えています。

戦争の爪跡(弾痕)



  本社玄関脇に、第二次大戦中に米軍の攻撃にさらされた橋げたを 展示しています。   この由来について2005年8月16日の神奈川新聞に 「戦後60年特集号」として記事が掲載されましたのでご紹介します。

戦後60年 次代に託す
  〜戦争の傷跡静かに伝え〜

  小田原市城内の小田原城のお膝元に、 戦時中の記憶を留める”遺構”が置かれている。 小田原駅の東西を結ぶ「青橋」の橋げたの一部だったもので、 米軍による機銃掃射の後がある。  その空襲があったのは、ちょうど60年前の1945年8月。 橋げたは静かに戦争の爪跡を今に伝えている。  橋げたを展示しているのは、 93年に行なわれた青橋の架け替え工事にかかわった 建設会社「田中組」(同市城内)

 田中社長(69)によると、 当時、田中組の社長だった父親の故・田中喜一郎さんが 「くず鉄にしてしまうのはもったいない」 と橋げたの一部を切断。「戦争を後世に伝えたい」 と会社の玄関脇に据え付けた。

 橋げたは高さ約1m、幅約1.5m、鉄製で表面は緑色をしており、 一部がさび付いている。この橋げたが使われていた青橋の下には 東海道線などが通る。戦時中、小学生だった田中社長にすれば 「好きな鉄道をよく見に行った場所」。

 その橋が、45年8月、鉄道を標的にしたと見られる米軍機の機銃掃射を受け、 被弾していた。橋げたの中央付近には、 機銃掃射によって開いた直径1cmほどの穴がある。

 「穴は一箇所だが裏側をのぞくとささくれており、弾の威力を感じさせる」 と話す田中社長は亡き父の遺志を継ぎ、今後も展示を続けていく。


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